| 過去に「リレーエッセイ」掲載されたエッセイです。 | ||
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| ハンマーは小さくなるか |
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中京大学 |
| 木村 吉次 |
| 2001.1.12 |
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昨年のシドニー・オリンピックではドーピング検査が厳しく行われた。このため欧米のハンマー投げ選手は、オリンピック前から記録を低下させていた。われわれとしてはドーピングとは無縁の、科学的トレーニングによって記録を向上させてきていた室伏広治選手に大いに期待したところである。シドニー・オリンピックが実際にフタを開けたところで、当初の予想通りハンマー投げの記録は悪かった。われわれが期待した室伏選手も雨のコンディションということもあって残念ながら実力を発揮できなかった。今度は優勝のチャンスがあるとみんなで語り合っていたので本当に残念であった。 ところで、このように厳格なドーピング検査によっておしなべて低調な記録に終わったハンマー投げは、記録主義をひた走ってきた近代スポーツとしては一つの課題をのこしたのではないだろうか。つまり、最高記録を出したあとで、それもドーピングという支えがなくなったとき、ほとんど新記録を出せなくなってしまったという状況に陥った場合、その競技の観客や愛好者は当該の競技に興味を失っていくのではないか。 かつて、日本の江戸時代に京都三十三間堂において行われた「通し矢」の大矢数という競技(暮れ六つから翌日の暮れ六つまで一人が一昼夜射通した)で、1686(貞享3)年に紀州藩士和佐大八郎が13,053射して、そのうち8,133本通したという大記録を打ちたてたことは、今日三十三間堂内陣の南側の長押にある掲額によって知ることができる。問題は、体力の限界に挑戦したと思われるこの大記録はかなり無理をしてつくられたふしもあるのだが、とにかくこれ以後ほとんどこの競技をやる者がいなくなってしまったことである。これは、記録が人間の能力の限界までいきついて、その壁を突破することができなくなったとき、その競技に関心が薄れていくということを示しているのではないだろうか。 楽観主義に立つならば、これまでもこれが限界と思われた記録を破ってきた事実が数多くあるのだから、いつかまた新しい記録ができるだろうと考える。反対に、これまでの記録の歴史は、民族・人種、階層などを越えて、いままで享受できなかった人々にスポーツが広まり、その能力を引き出してきた歴史だった。そしてそれはグロバリゼーションの時代において極限に近づいているとみられるし、また他方では科学的トレーニングの進展によって破ってきた限界というのもやはり、限界があるだろうと考えられる。 そうだとすると、ここで一つの可能性は、用具の改良と進歩というものに新しい記録の誕生がかけられてくる面が残されているということである。棒高跳びが竹のポールのままであったら、もっと早くにこの競技に対する興味を失っていたのではないか。グラスファイバーのポールが発明され、使用されて記録が更新され、興味が持続してきたことは誰しも認めるところではないだろうか。 こうしたことをかんがえると、私はハンマー投げが記録を追求していくためには、もはやハンマーを小さくするとか、あるいはわたしには思いつかないような何かハンマーの構造とか部品とかに工夫をこらすとかが必要になってきているのではないだろうか、と途方もないことを考えている。既成概念が崩れていく現代、スポーツにおいてもいろいろ大胆な改革が求められていくのが21世紀ではないだろうか。 |
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