| 過去に「リレーエッセイ」掲載されたエッセイです。 | ||
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| ネオ・バーバリアン化への危惧 |
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筑波大学体育科学系 |
| 柳沢和雄 |
| 2000.4.14 |
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「新人類」という用語はどこに行ったのだろう。この用語が使われはじめた昭和60年代、当時の大人は既成の価値観からは理解できない何かが若者を動かしているという、一種の不安と世代間ギャップを感じていたという。新人類という用語は、その後の若者文化が一般化され日常的になったため、特段その用語を用いる必要はなくなったのであろう。確かに、”ルーズソックス”も”ガングロ”もだいぶ慣れてきた。どうもこの手のカテゴリーは”ギャル(発音が難しい)”と言うらしい。おそらく数年後には”ガングロ”はいなくなるであろうが、スポーツ産業との関連で考えなければならないのは、そういった現象の背後にある、若者だけでなく全ての人々が否が応でも involve されるハイテクノロジーとスポーツ文化、生活文化との関連であろう。特にデジタル化やインターネットの普及がもたらす生活空間やスポーツ空間、そこにおけるコミュニケーションの激変であろう。 デジタル化やインターネットがもたらすメディアとスポーツコンテンツの問題は多くの人々が指摘するところであるが、ここでは特にそのような社会における人間の「知」の後退について考えてみたい。 インターネットは確かに生活様式や労働形態の利便性を高めるが、問題はそこにおけるコミュニケーション問題である。対面的なコミュニケーションは、相手が今感じていることを想定しながらコミュニケーションを取ることによって成り立つ。しかしインターネット上ではそのような必要はない。チャット上では相手はどのような顔をしてタイピングしているかわからないし、嫌になったら相手のことを考えず切ればよい。そういったコミュニケーションを支えるメタ・コミュニケーション能力をどの様に担保してゆくかを考えなければならないであろう。スポーツに関しても同様で、バーチャルな世界のなかでスポーツリアリティを感じ取れる能力を持たなければスポーツ文化自体は成り立たない。バーチャルな世界でのプレーヤーはそれがいかにイチローや松坂に酷似していても、それは部品でしかすぎない。真の意味での緊迫感や臨場感は体験を通して知的にも身体的にも落とし込まれていなければ理解できない。にもかかわらず、その世界を読みとる能力がないままであるとしたら、それはスポーツ「知」の後退と言うしかない。さらにそれらバーチャルな世界を映し出す技術も急激に進展するであろうが、かつて言われた「理系離れ」という現象にも留意しなければならない。すなわちバーチャルな世界がどのようにしてデリバリーされるかというプロセスが欠落するという問題である。プレステ2を購入すれば直ぐにその世界に入れるが、プレステ2そのものの仕組みには無関心になる。産業社会、それを支える技術は、人間のプロセスに対する無関心を増長させるという裏腹な危機を持っている。これもまたある種の「知」の後退であり、新しい野蛮人化(ネオ・バーバリアン化)と言えよう。 さて、このような新しい社会状況を否定するわけではないが、スポーツ文化が生活文化、身体文化であり続けるために、我々はどのような仕組みを作らなければならないであろうか・・・。 |
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